「『現実』のほうが『小説的』に出来てるんだ」

りすん / 諏訪哲史

f:id:yutori_jp:20230908162859j:image

スターバックスコーヒー@どこかしこ

スタバで頼むものはいつも同じで、イングリッシュブレックファストティーティーラテ。シロップを半分にすることでちょうどいいほんのり甘さになるのでおすすめ。

「俺たち、作者に聴かれて、書かれることで、まるで紙の中で他人に生かされてるみたく思ってたけど、そうじゃなくて...、実は、作者は俺たちの中にいた。...俺たちが自分で、誰かに書かれているって思いこんでたんだ。『俺たちを書いている作者』のことを、心のなかで、俺たちが、自分で書いてた...」

これ、読み終えてまず、「なんやこれは?」と思った。読み終わってから1週間ほど経つけど、まだモヤモヤしている。私は何をみせられたのか。いまだにうまく言語化することができない。

途中まではありがちな構図の小説だと思った。白血病に蝕まれる妹と血のつながりの無い兄。変わっている点は文章が会話だけで構成されていてト書きが無いこと。でも、段々慣れてくる。登場人物を把握してからは、特に刺激もなくなる。このまま予想通りの展開(妹死、哀しみに暮れる兄...)になるのだと思っていた。
ところがそうはならない。なんか段々、思ってたのと全然違う展開になっていく。

 

「俺達のいる世界は、ここに、れっきとして、俺たち自身が書いて、そしていきてる。他の誰にも書かれてなんかないし、誰に生かされてるわけでもない」

「だってさ、普通の『現実』の方は純粋で、邪気も作為もないなんて、とんでもない嘘っぱちだ。本当の本当は、そうじゃない。『現実』のほうが『小説的』に出来てるんだ。それはさ、その『現実』の中で生きてる人たち全員が、実は、自分たちを、自分の手で、小説みたく、作為的に『書いて』いるからだ。...」

闘病中の妹にかける言葉としては思想強すぎんか。

物語の途中から、兄妹は同じ病室の女性に翻弄される。この人が実は兄妹の会話を盗み聞いていて、それをどうも物語にしているらしいという展開になる。
からの、上記のセリフ。所々意味ありげに太字になっていたりする。

何なのかはうまく言えないけど、作者が何かを訴えかけようとしている...??という気がした。作者はこの、よくありそうなお話を見せたかったのではなく、これを通して、もっと大きな話(小説というものに対しての思い?)を伝えようとしている...?なんかそんな感じがした。いまだにそれが何なのかうまく言えないので、あとがきにあったヒントらしきものを下に記しておく。

この原『りすん』=「アサッテ問答」において少なくとも僕が標榜したのは、「完全会話体」とでも言うべき文体への厳格な自己緊縛と、物語の紋切型に対する無自覚への批判であり、またそれ以上に、既存のすべての小説様式が不可避にもつ構造、僕の文学的懊悩の最大の怨敵である入れ子構造に対する無自覚への、果敢で無謀な批判であった。

僕には批評すべき紋切型が存在した。それは「物語」、中でも近代文学史において飽きもせず執拗に繰り返されてきた紋切型、すなわち「愛と死の物語」である。〜そうとみるや、メディアはまた類似品を量産しまくった。1リットルやらタイヨウやら余命1ヶ月やら恋空やら。みなバタバタ商品化され、主人公はバタバタ死んでいった。それでもまだ号泣して銭を投げるうぶな金づるがいるからには、みな、殺すのをやめられないのだった。ヒロインを殺せば殺すだけ金になった。ボロい商売だった。

これを読んだのは、20年来の幼馴染の影響。彼女が仕事で関わる演劇の原作がこの本だと言っていた。観に行きたかったけど都合がつかず、本を読むことにした。
絶対に自分ではたどり着かなかった作品なので、彼女に感謝。また5年後10年後に読み直したい。