「たいへん遺憾ながら、美しく生まれてしまった」

少女七竈と七人の可愛そうな大人 / 桜庭一樹

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CAFE JEUNO @京都・松ヶ崎

昔よく行っていたお気に入りのお店。本当に、何を食べてもおいしい。
かぼちゃケーキを頼んだら、バニラアイス、シナモンパウダー、甘納豆、チョコクランチが添えられていた。付け合わせがうまく、こだわりを感じる。
ごはんも勿論美味しい。お気に入りは肉じゃが風ドリア。
四条あたりの観光客ターゲットの店より断然、このカフェがお勧めである。

たいへん遺憾ながら、美しく生まれてしまった

物語はこの一文から始まる。
とても短い文章でありながら、なぜか引き込まれてしまう。

美しく生まれるのは一般的には恵まれたことだと思う。
それなのに遺憾とは一体どういうことなのか。
「生まれてしまった」という言葉から、これは比較的若い人物によって発せられた言葉ではないかと推測する。
しかし、「大変遺憾ながら」という言い回しは少々古風。
これらの矛盾、ちぐはぐ感が、この文章に惹きつけられる理由なのではないかと思った。

この物語をすべて読んでから思い返すと、この一文に主人公である七竈(ななかまど)の性格と苦悩がよく現れている。秀逸な文章だと思った。

 

獣は、親のことなど気にせず大人になるのですか?ねぇ、ビショップ。ねぇ、ビショップ。わたしおかあさんという女の人を許せるのでしょうか。子供に親は選べないとよく言うけれど、親を許すかどうかは、選べますねぇ。これは分岐点なのでしょうか。わたしの人生の。ビショップ。雪風と出逢わせ、引き離し、私をこの街に引き止めていたあのいんらんの母を。もしも、もしもゆるせたらですね、ビショップ。そしたらわたしは、自分をすこしだけ、上等な人間のように思えるでしょう。〜だけど、ビショップ。人間にはそれがなによりむずかしい。

ビショップは犬である。
七竈が唯一、弱音を吐けるのがこのビショップ。
一見堅物で強そうな七竈の本心を垣間見ることができて、一気に親近感がわく。
許すということは難しいし、それができたら上等な人間のように思えるというのは、とても分かる。大共感。
でもそれがなにより難しい。全く仰る通り。

私は平凡な、つまらない女だった。道を歩いていて異性が振り向くことは皆無と言って良かった。ごく普通の顔立ちに、太っても痩せてもいない、とても、つまらない体。 よくよく話せば 私のことを気に入ってくれる人はいたが、それはさりげなく存在する善良なものに対する、穏やかな好意にすぎなかった。誰も私を熱烈に恋したりしなかった。 私は平凡な、つまらない、白っぽい丸であったのだ。あぁ。

七竈の母の苦悩。
「さりげなく存在する善良なものに対する、穏やかな好意」という言い回しはとてもうまいなと思った。
いわゆる「いい人」と言うのを分解すると、こうなると思う。
要するにこの人は、"特別"になりたかったのだ。
いたって平凡で、ほとんどの人間が根源的に欲している欲望。
こんなありふれた欲望が引き金となり、七竈の特殊な苦悩が生まれてしまったのは、気の毒ながら、面白い構成だなと思った。

 

ともかくですね、その男が私に言うのです。 自分のことを、ほんのすこぅしだけ 許してくれないだろうか、と。 その時私は思ったんです。 全てまっさらに許せと言われると、人の心はとても狭いものだし、うなずきづらいけれど、でも、ほんのすこぅしだったら、何でも許せる気がしてしまうなと。

すこぅしだけ許す、という発想はなかった。
「許す」「許さない」といったように白黒つけようとしてしまうけど、
「すこぅしだけ許す」というグレーを取り入れてみるのはいいかもしれない。
そのうち段々、許せるようになるかもしれないから。

 

桜庭さんの作品はGOSIC以来。
美しい堅物の女の子がでてくるという点は共通。
「GOSIC」はミステリー、「少女七竈と七人の可愛そうな大人」は人間模様ってかんじで、俗っぽい(?)面白さはあった。
でも美しすぎる少女という設定がそもそも現実離れしているから、フィクション感のただようGOSICのほうが、世界観に浸れて好みかな~と思いました。