「人生は、小さな孤独の数々から成り立っている」

教養としての映画 / 伊藤弘了

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カフェドフィネス@大阪・都島

最近お気に入りの喫茶店。喫煙OKなので、ほんのりタバコの香りがする。それもまたいい。

趣味で映画と答える人は多いし、自分もそれとなく観てはきた。

大学生の時なんか、毎日のように誰かの家に集まって映画を観ていた。時間を持て余した学生にとっては、最も手軽なコンテンツだったと思う。

ただ、年を重ねるごとに、正しく映画を観れていない気がしてきた。

「なんやこれは?」や、「これはよかった!」など、感情が揺さぶられた作品は、見終わった後に感想・考察を検索する。答え合わせ的なスッキリ感を求めて探すのだけど、それを見ると、「自分は一体何を見てたんだ...」というプチ虚無感が訪れる。

そんな状態に解決策をくれるんじゃないかと思って読んだこの本。いろんな作品の見方が解説されている中で、印象に残った文章がこれ。

フラッシュバック(回想シーン)を用いない点も両者に共通しています。小津も是枝も、登場人物の思い出はすべて会話の中で処理しています。~(省略)〜二人の監督は、記憶というものは客観的な映像によって安易に提示できるようなものではないと考えているのでしょう。

回想シーンが使われることって多いけど、なぜだか少し、興ざめしてしまうことが多かった。それがなんでなのか深堀することはなかったけど、この文章を読んだときにピタッとはまった気がした。「記憶」というより「再現」に見えてしまって、世界観に浸りきれなかったんだ。記憶ってそんな安易に表現できるものではないから。

 

最後のほうに書いていた、この文章もよかった。

私はその驚きのことを時々人に話してみたが、しかし誰も驚いてはくれず、理解してさえくれないように思われたので、私自身も忘れてしまった(人生は、このように、小さな孤独の数々から成り立っているのだ)〜たとえ自分の記憶からさえ抜け落ちてしまったとしても、そうした無数の感動体験があなた自身を形成していくのです。それはたしかに孤独な営みに違いないでしょう。ですが、深みのある人格を身につけ、豊かな人生を送るためには、孤独に浸り、自分自身と向き合うための時間が絶対に必要なのではないでしょうか。そうした「小さな孤独の数々」こそ、映画が与えてくれる最も貴重な経験なのかもしれません。

人と関わることはもちろんだけど、映画をみたり本を読んだりすることでも、少しずつ自分の人格が形成されていっていると思う。