「人間は老衰するから働けぬというよりも、働かぬから老衰する」

私の生活流儀 / 本多静六

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本を図書館に返しに行くついでに散歩したら、いい路地裏の景色を見つけた。

まだ幾年でも立派に働けるのに、誤った隠居的観念にとらわれて、それをすらやめてしまうのは惜しい。 一種の自殺とさえ見られるものがある。

やれ還暦だの、やれ古稀だの 、やれ喜の字だの、つまらぬ習慣や迷信は振り捨ててしまって、働けるだけ働き、生きられるだけ生きなければウソである。 人間は老衰するから働けぬというよりも、働かぬから老衰することになるのである。

 

20代後半くらいから、人生の終わり方をよく考えるようになった。

今のところの目標は「老害にならない」。

老害にならないためにはどうしたらいいか考え、「暇を持て余さない」ことが大事という結論にたどり着いた。

私が出会った「老害じゃない人」は、いつも仕事と趣味で忙しそうなのだ。

だから私もなるべく細く長く、仕事と趣味を続けていくつもり。

 

こうした普段なんとなく感じていたことが、この本でビシッと言語化されていて、スッキリした。

普段「よかった!」と思う本には、"共感"か"発見"がある。

この本には両方あった。

静六氏特有の哲学が色々あって、かなり面白い本だった。

印象的だった文章をいくつか記しておく。

 

(自分の体力について)人を驚かすまでの存在であるかは疑問としても、自ら認めて、まず相当なものだと思っている。

人どうこうより、自ら認めているところが素敵だと思った。

 

我々が常に心を快活に保ち、いつもニコニコ生活を続けるには、遠慮、痩せ我慢、負け惜しみ、虚偽、それにまた、決まりが悪いとか億劫だとか言うようなことを一切追放してかからなければならない。 何でも、子供のように無邪気になることである。

子どものように無邪気は最強だと感じる。うちの所長がそう。

 

体ばかり働かせてもだめ、頭だけ働かせてもだめ、そこは私の言う働学(労働と学問)併進で、両方を適度に混ぜ合わせなければいけない。 体ばかり働かせていたのでは頭が先に参り、また、 頭ばかり働かせていては体が先に参る。 人間の健康長寿には、この両全が最も大切なのである。

今の仕事は学に偏っているので、いかに働を取り入れるか模索中。

 

私はかつて、「如水生」という筆名を用いたことがある。それは、流水のごとく自由に、 さらさらと、世に処し、生を送りたいと願ったからだ。水のごとくと言っても、水の姿にはいろいろとあり、怒濤逆捲く荒海の姿もあれば、洋々と流れる大河、潺々と楽し気に走る小川の姿もある。しかも私の、自らあらまほしく考えたのはその徳と力とである。中でも私は、水は淡々として方円の器に従うというところが気に入った。すなわち、いかなる境遇にも自ら適応し、安住する。 かつ澄み、かつ濁り、しかもいつかは、 自ら貫くべきものを貫いていく。 自分も是非そうなりたいと念じたのである。

自分の名前はかなり水属性で、正直、名前に込められた意味があまりしっくり来ていない。こういう風に捉えると、水も悪いものではないなと思った。

 

静六氏は、毎晩1ページの文章を書くようにしているらしい。

この本が出版されたのは静六氏が83歳のとき。

私も見倣って文章を書くことにした。

単純やけど。